>>白シャツ氏 往復書簡開設ご苦労様です。こうなるとテクストを決めたいですね。ここが濃ゆ~い場になりますように!<引用>「学び力」の4つ目は、共有力です。学ぶということには、他者と認識を共有していくことが本質的に含まれます。 学びの形の原型を歴史上で探せば、ソクラテス・プラトン・アリストテレスの師弟関係に行き当たります。彼らがどのように学びを続けていたかといえば、対話です。対話によって、学ぶことのすべてが成立していました。 対話的な構造を持ち込むことで、物事の理解は深まっていきます。対話的構造を持たなければ、学びは身に付きにくいものです。 学びは自分だけのもの・・・という利己的な考えは捨ててしまいましょう。学びを共有し、自分と他者が理解しあえるという信頼感が醸成されること。それは人生で最高の楽しみでしょう。斉藤孝氏『学び力』(宝島社)より抜粋ですって。そんな読書会がでけたらいいですねっ!
対話っていうのは、確かに究極的なスタイルだと思う。論語も孔子と弟子との対話ですし。「学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや」っていうのは「学んでたまに復習する」って言われるけど、復習っていうのは、人がいないと出来なかったから、人が集まる貴重な機会があることが「説ばし」かったのでしょう、って。まぁ、師弟関係ではないけど、奢ることなく「対話」と行きましょう。とりあえず、折口さんの文章で調べてて面白いかも、って思ったものを挙げておきます。「零時日記」(弟子に筆記させていた初期のもので、折口は若い弟子に対し「魂の感染教育」を意図していたはず、と思われる)「民俗学から民族学へ」(柳田國男との対談)「伝統・小説・愛情」(源氏物語、光源氏の心象を分析)「異郷意識の進展」(折口学を語る上ではかかせないらしい)「国文学の発生」(『日本文学の発生は神の発する呪言にある』。この論文を厳密に注釈化することが、とても良い折口勉強法となるだろう。)とか、色々あったけど、取敢えず入手しやすいものは、ほとんどなさそう。取り急ぎ、ここに書いておきます。
作品列挙、㌧クス!>>入手しやすいものは、ほとんどなさそう。 orz とりあえず、『国文学の発生』のレジュメっぽいの作ってみたよ。ここから論点抽出していったらええかな、思います。それと、不足もあると思うんで、この解釈どうなん?とか、こういう視点もあるよとか、ここわからんのだけども、とかいろいろつっついていただいて。叩き台になれば幸いです。p.s.こういう作業やると煙草の量めっちゃふえるね、馬に喰わす程の煙草喫みましたわ。
とりあえず、ルール追加案として、議論の発展を祈りつつ「コメントひとつひとつ煮詰めすぎない」を挙げたい。なんせ、ネットなんで、議論が重くなると、書き込みがめんどくさくなる傾向があると思うんで、出来るだけ軽く議論が進むように。まぁ、でも程度の問題なんで、気にするものではなく、気を抜くものとして。詰め込んだ書き込みはする必要ないよ、って救いがないと、書くのがしんどくなったら嫌じゃない。そんでもって、対話よりも、論理的な議論が出来る余裕があるから、分からないところがあったら、ばしばし聞くこと。話じゃなくて、文章だけで伝えるのは、結構難しいと思うけど、その訓練は、結構良いと思うしね。というわけで、異議あったら、ばしばし言うてね☆
>>「コメントひとつひとつ煮詰めすぎない」桶!ばっしばし、イきます!>>話じゃなくて、文章だけで伝えるのは、結構難しいと思うけど、その訓練は、結構良いと思うしね。ヾ(´▽`)激しく同意!普段使ってない脳味噌の部位を使いよる感じがして、なんか新鮮。あ、あと自分で自分の文章がどんなもんになってんのか、わたくし、よく把握できてないときが結構あるんで、こういう風な書き方した方がわかりやすい、とかっていうのもバシバシ言うてくださいね。するってえと、この場は内容・形式両面のトレーニングになるという。まさに一石二鳥ですね!
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5 件のコメント:
>>白シャツ氏
往復書簡開設ご苦労様です。こうなるとテクストを決めたいですね。ここが濃ゆ~い場になりますように!
<引用>
「学び力」の4つ目は、共有力です。学ぶということには、他者と認識を共有していくことが本質的に含まれます。
学びの形の原型を歴史上で探せば、ソクラテス・プラトン・アリストテレスの師弟関係に行き当たります。彼らがどのように学びを続けていたかといえば、対話です。対話によって、学ぶことのすべてが成立していました。
対話的な構造を持ち込むことで、物事の理解は深まっていきます。対話的構造を持たなければ、学びは身に付きにくいものです。
学びは自分だけのもの・・・という利己的な考えは捨ててしまいましょう。学びを共有し、自分と他者が理解しあえるという信頼感が醸成されること。それは人生で最高の楽しみでしょう。
斉藤孝氏『学び力』(宝島社)より抜粋
ですって。そんな読書会がでけたらいいですねっ!
対話っていうのは、確かに究極的なスタイルだと思う。
論語も孔子と弟子との対話ですし。
「学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや」っていうのは「学んでたまに復習する」って言われるけど、復習っていうのは、人がいないと出来なかったから、人が集まる貴重な機会があることが「説ばし」かったのでしょう、って。
まぁ、師弟関係ではないけど、奢ることなく「対話」と行きましょう。
とりあえず、折口さんの文章で調べてて面白いかも、って思ったものを挙げておきます。
「零時日記」(弟子に筆記させていた初期のもので、折口は若い弟子に対し「魂の感染教育」を意図していたはず、と思われる)
「民俗学から民族学へ」(柳田國男との対談)
「伝統・小説・愛情」(源氏物語、光源氏の心象を分析)
「異郷意識の進展」(折口学を語る上ではかかせないらしい)
「国文学の発生」(『日本文学の発生は神の発する呪言にある』。この論文を厳密に注釈化することが、とても良い折口勉強法となるだろう。)
とか、色々あったけど、取敢えず入手しやすいものは、ほとんどなさそう。
取り急ぎ、ここに書いておきます。
作品列挙、㌧クス!
>>入手しやすいものは、ほとんどなさそう。
orz
とりあえず、『国文学の発生』のレジュメっぽいの作ってみたよ。
ここから論点抽出していったらええかな、思います。
それと、不足もあると思うんで、この解釈どうなん?とか、こういう視点もあるよとか、ここわからんのだけども、とかいろいろつっついていただいて。叩き台になれば幸いです。
p.s.こういう作業やると煙草の量めっちゃふえるね、馬に喰わす程の煙草喫みましたわ。
とりあえず、ルール追加案として、議論の発展を祈りつつ「コメントひとつひとつ煮詰めすぎない」を挙げたい。
なんせ、ネットなんで、議論が重くなると、書き込みがめんどくさくなる傾向があると思うんで、出来るだけ軽く議論が進むように。まぁ、でも程度の問題なんで、気にするものではなく、気を抜くものとして。詰め込んだ書き込みはする必要ないよ、って救いがないと、書くのがしんどくなったら嫌じゃない。
そんでもって、対話よりも、論理的な議論が出来る余裕があるから、分からないところがあったら、ばしばし聞くこと。
話じゃなくて、文章だけで伝えるのは、結構難しいと思うけど、その訓練は、結構良いと思うしね。
というわけで、異議あったら、ばしばし言うてね☆
>>「コメントひとつひとつ煮詰めすぎない」
桶!ばっしばし、イきます!
>>話じゃなくて、文章だけで伝えるのは、結構難しいと思うけど、その訓練は、結構良いと思うしね。
ヾ(´▽`)激しく同意!普段使ってない脳味噌の部位を使いよる感じがして、なんか新鮮。
あ、あと自分で自分の文章がどんなもんになってんのか、わたくし、よく把握できてないときが結構あるんで、こういう風な書き方した方がわかりやすい、とかっていうのもバシバシ言うてくださいね。
するってえと、この場は内容・形式両面のトレーニングになるという。まさに一石二鳥ですね!
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